仙台市にある就労継続支援B型事業所「工房きまち」です。
前回の震災体験のお話の続きです。前回のお話は下記をご覧ください。
14年目の3.11と記憶に残る震災体験① | 社会福祉法人みんなの広場
大きな揺れは何分続いたのでしょうか。とても長く感じました。利用者を含む私たち6名全員の無事を確認し合いました。余震もあり、不安な中、周囲を見渡すと、先ほどまで出入りしていた倉庫の中は、パレット積みの荷物が大きく崩れて手の付けようがない状況でした。利用者と話し合い、とりあえずすぐに帰ろうと決断しました。なぜその判断ができたのか、今考えても思い出せませんが、この決断が後に正解だったことが分かるのです。
私たちが作業していた場所と、会社(施設外就労先)の事務所は少し離れていたため、私は自転車で事務所に向かいました。事務所の敷地内の倉庫でも同様に荷崩れが起きており、灯油のホームタンクが倒れていました。社員やパートの方々が一生懸命に復旧作業をしていました。
このような状況の中で、自分たちの持ち場を整理せずに私たちだけ「帰ります」とは言い辛かったのですが、「次回来たときに片付けますので、今日は帰ります」と担当者に伝えました。また、「津波の警報が出ているので、皆さんもすぐに避難した方が良いと思います」とも伝えました。担当者からは「ここは(津波は)大丈夫だから」と返答があったことを今でも鮮明に覚えています。なぜあの時もっと強く声をかけなかったのか、後悔しました。
すぐに利用者のもとに戻り、帰り支度をして15時15分には車に乗り込みました。駐車場を出てしばらく走ると、地震の被害の大きさを目の当たりにしました。道路が真ん中からへの字に曲がり、陥没や隆起もあり、いつもの風景とは一変していました。車の底をこすりながらもどうにか前へ進みました。信号はすべて消えており、大渋滞が発生していました。他の車と譲り合いながら交差点を通過しました。公共交通機関もすべてストップしていました。津波のニュースをラジオで聞きながら仙台市外に近づくにつれて渋滞はひどくなり、車はなかなか進まなくなりました。公園でトイレ休憩を挟み、途中下車の利用者を降ろしながら4時間かけて事業所(工房きまち)へ戻りました。普段であれば1時間もかからない道のりです。最後に残っていた利用者数名を自宅に送り届け、私も自宅に戻りました。
事業所までの道中、コンビニやガソリンスタンドに並ぶ人々を見かけました。その時は、なぜこんな時に並んでいるのだろうと不思議に思いましたが、今思うと、すぐに行動できていた人たちに感心します。ライフラインが使えなくなることは想像できましたが、すべての物流がストップし、食べ物や日用品が手に入らなくなることまで考えられませんでした。だからこそ、日頃の備蓄が重要なのです。
当時、施設外就労に行っていた私と利用者全員が無事帰れたのは、さまざまな奇跡が重なったからだと思います。
もし地震が作業開始間もない午前中に発生していたら、みんなで後片付けをしようという流れになり、全員が津波に巻き込まれていたかもしれません。作業終了時間直前に起きた地震だったからこそ、すぐに帰ろうという判断ができたのでしょう。
また、前日に送迎車をガソリン満タンにしていたこと、その送迎車が8人乗りで全員が乗れたこと(利用者全員が送迎ではなく、バスで通う方もいたため、日によっては4人や5人乗りの送迎車で行っていました)、隆起や陥没する道路をタイヤがパンクせずに走り切れたことなど、少し何かが欠けていたら判断を見誤る結果になっていたかもしれません。
東日本大震災から14年目を迎え、当時の記憶を振り返ってみましたが、実際に体験したことはもっと絶望的で、ここでは書けないような悲惨な光景もたくさん目の当たりにしました。このような大規模災害はいつ起こるか分かりません。やはり日頃からの訓練や準備が大切だと痛感した1日でした。